“日本一になる道を知る、今”
私の姉が病気になりました。
でもね、「癌になったといっても、もう87歳だし、もうそこまで生きれば十分じゃない。もうすぐ90だし、変な手当てをしなくてもいいんじゃない」とあまり問題にしてもらえなかったの。
事実、姉は重度の糖尿病で、肺を半分切ったり、アレルギーがあったりして、40歳までしか生きられないと言われた人が戦い続けてここまで生きてきたのよ。
私の家族は戦うことが好きで、障害がいっぱいあればある程、戦い挑める性格に産んでもらったことを感謝しているのですが、姉もそれは一緒でした。
姉はトップでなければ嫌な人でした。小さいころからそうで、学校の時もそうでしたが、美術商としても日本でもトップのものをたくさん集める仕事をしていました。そんな姉が、
「私は戦わずして1日も過ごすことはできない。
だから、日本中で戦える医者を探せ!日本一の医者を探せ!」
と私に命令するのです。姉は100億以上、私よりも多くのお金を持っているので、そのお金を全っ部使ってもいいから探せというのです。
私も顔が広いですので、日本中の医者に声をかけて、日本のトップの先生のところまで行きました。
そしたら、日本のトップの人達を集めてくださったのです。
今は東京に出て行き、ある病院に入院し、1日10万円以上の部屋に入って、いい医者を集めて戦っています。
その戦った女である彼女が名言をくれました。
「トップになる病院だから、何が違うと言ったら、
医者をはじめ看護師も、患者も、全員誰一人も、みんな治る道、治る治療、その道一筋しか道が無い。
全員がその道しか歩かない。だから、ここは一番になったんだ」
と私に連絡がありました。そして「ありがとう」と言われました。
姉にありがとうと言われたのはこれが初めてぐらいかな(笑)。
それまで兄弟だから何をやっても「ありがとう」と言える間柄ではないのに、本当に嬉しかったんだと思います。
また、私の変わりに東京まで姉を送ってくれた息子から電話が入ったので、
姉は喜んでたよ!と、姉の言葉を伝えると
「分かる分かる!俺も腹が立つほどよく分かる!」と言うのです!
「何が分かるの?」というと、
「あの病院で、エレベーターを上から下りていく途中、
急いでいるのに二つ下ぐらいでエレベータが開いて、
若いインターンの先生と看護師が入ってきた。
そしてベッドにはあまり重病でもなさそうな患者が乗っていたので、
ドアを開けたままにして「何階ですか?」と聞いたら
「うるさい!いいから降りろ!」と言うので、
びっくりして「僕がですか?」というと「そうだよ、出て行け」と言うのです。
腹が立ったけれど降り、次のエレベーターを待っていられず、
仕方なく階段を降りながら思ったんだよ。
「すごいな!」って。
「こんな大事な患者が乗ってるんだから出て行け!」「ということだろうから、
あんなこと言われたら、患者は嬉しかっただろうな!と。
だから、お姉さんが言った言葉は全てに表れてるよ。
腹が立ったけど、若い医者や看護師たちは正しいと思ったよ。
こんなことができる、言える強さが日本一になれるんだと思ったよ」
って言ってくれたのよ。あそこでは、患者の命が最優先なんですね。
そしてね。私は紹介していただく中で、多くの先生を説得しました。
その時に、どの医者も「それならやりましょう」と言ってくださった一言があります。
「私は姉の病気で学びました。
もちろん、私自身、残された兄弟3人の一番上の姉を無くすことは悲しい。
喧嘩ばかりしていた姉ですが、本当に悲しい。
でも、もっと悲しいのは母だと思うんです。
34、5年前に死んでしまった母がいたら、もっと悲しむだろうと。
そこで、気づいたのんです。
そうだ!親が死んでからでも親孝行ができる!
だから、母のために、親孝行のために姉をお願いします」
と、説得しました。
生きている時だけではなくて、死んでからでも親孝行ができることを悟りました。
きっとね、今回私がしたことは母が一番喜んでくれると思います。
「ありがとう」と言ってくれるだろうと思えたのよ。
みなさん!死んでしまった親に対する親孝行って知ってる?
残された兄弟がいかに大切にし合うかよ!
私は、今回、これを深々と知り、皆さんにお伝えしようと思いました。
そしてね、私はちょっとここで自慢したいの。
母は私のそばでずっと暮らしてくれました。
「わがままができるから」と言って、
それに私、稼いでたでしょう?(笑)
だから、何でもさせてあげられた。
1日1億という日泰寺で、母の葬儀を出してあげられた。
そんなに稼いでたから、最後の頃には、何でもやってたげられたの。
「なんでも叶えてあげられるようになったから、今こそ、幸せになるために何でも言って!」と過ごさせました。
父を亡くしてから、大勢の子どもたちを女手一つで育ててくれた母だから、ここで幸せになるのが当たり前だと思ったからよ。
最後の最後まで、病院に行かせないで手元でと思ったけれど、「もう病院へ行かなきゃ!」とい時には、一番いい部屋に入れました。
その頃、ちょうど石原裕次郎が1日50万という部屋にいるというから、もっと高い部屋に入れてあげたいと思ったけれど、その当時名古屋にはそんな部屋が無かったので、しょうがなく一番いい部屋に入れました。そして、部屋が広いので、仕事が終わったら毎晩そこに帰り、ちょっとの時間も一緒に過ごし、寝泊りしました。
ある朝、「行ってきます!早く返ってくるからね!」とドアを出ようとしたら、子どもの時の名前がともこだったので、
「ともさん、ともさん、最後の願いをちょっと聞いてくれんかよ。
よーーく、幸せにしてくれてありがとう。
感謝はするけど、もうひとつ頼みを聞いてくれ!」と言うのです。
「なあに?」と聞くと
「1分でいいから、テレビの画面を買ってくれんかよ」と言うのです。
「それはどういうこと?」と言うと、
「命のある間に、その画面にわしを出してくれ。
そこで、みんなに言いたいことがある。
世界一幸せな母。世界一な親孝行娘、吉川幸枝と言わしてくれ」
と言ったのよね。
それを聞いた時、「よしよし」と約束をしたけれど、その後10日ぐらいで他界して忘れてしまっていました。
そして、母が死んで半年後ぐらいからかな、テレビがたくさん取材に来てくれるようになって、今までに800回ぐらいになって、どれに出たかわからなくなるほどよ(笑)。
それから10年程、全く気づかずに、
それがあたかも自分の力のように錯覚してテレビに出まくっていたんだけど、ある時気づいたの。
母はずーーとテレビに出続けてたのよ。死んでからもよ!
テレビ局の人があなたの一番苦境時代の写真をくれというけど、そんな苦境時代の写真なんてないよね?夜逃げしよう!という時に、記念撮影なんてしないもんね。隠したいぐらいなんだもの(笑)。
でもね、一緒に働いていた女中さんたちの1人が持っていてくれたの。
母と二人で住み込みで働いた時代の写真がたった一枚。
そのたった一枚の写真がテレビに出続けて出ていたのよ。私の苦境時代、苦境時代でね。
だからね!あの病院で母が言った「画面を買ってくれ。世界一の幸せな母。世界一の親孝行娘と言いたい!」と言った通り、勝手にテレビに出ていたのよね(笑)。死んでからもね!
さっき言ったように、死んでからも親孝行はできるし、
母は死んでからも娘に愛を送り続けて、応援し続けているんじゃないかな。
こんなことを、とっても大切に思わない?。
だからね、全て私の力じゃないのよ!
私のテレビを見たことがある人は、その母との写真を見たことがあるんじゃないかな?
私は死んだ父と母と3人で働いているようなものなのよ。そりゃーすごいよ(笑)。
死んだ父母が今だに応援し続けてくれて、いざという時は助けてくれているのよ。
私には信じられないような話がいっぱいあるの。知りたかったら、聞きに来てね!
こういう世界があることを多くの人は知らないね〜。でも、本当の話よ。
知って欲しいな〜♪
吉川幸枝
先日「踊る!さんま御殿!!」の収録をしてきました。
放送予定は、11月15日(火)か、22日(火)のいづれかです。見てね♪
母が生前、「買いたい」と言ったテレビの画面に出続ける吉川幸枝よ(笑)。
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